日本の家庭で日常的に使われている洗剤、シャンプー、化粧品、そして紙おむつ。日用消費財(FMCG)と化粧品の両輪で日本のトップに君臨する花王(Kao)は、中国市場においても長年にわたり、日本品質を象徴する絶対的なブランドとして絶大な支持を集めてきました。
2010年代の訪日インバウンド・ブームにおけるベビー用紙おむつ「メリーズ(Merries)」の爆発的な売れ行きは、日本国内の店舗から商品が消えるほどの社会現象となり、花王の中国事業、ひいてはグループ全体の利益を大きく牽引しました。また、敏感肌向けスキンケア「キュレル(Curél)」や「フリープラス(freeplus)」は、中国の若者たちの間で「最初の日本製コスメ」として確固たる地位を築きました。
しかし、2026年現在、花王の中国事業は極めて厳しい試練の真っ只中にあります。「メリーズの神話」は中国ローカルブランドの台頭と少子化によって崩れ去り、頼みの綱であった化粧品事業も、2023年のALPS処理水放出問題を契機に急ブレーキを踏んでいます。
本稿では、花王が中国市場で歩んできた栄華の歴史を振り返りつつ、現在の業績低迷を引き起こしている「中国ローカルブランドの進化」と「中価格帯(マステージ)の罠」という構造的な問題を、データと3つの図解を用いて徹底的に解剖します。そして、痛みを伴う事業再編の中で同社が見出す「サバイバル戦略」に迫ります。
1. 歴史と絶頂期:1993年進出と「メリーズの奇跡」
花王の中国事業の歴史は古く、1993年に上海に合弁会社を設立したことから本格的にスタートしました。当初は洗剤やシャンプーなどのパーソナルケア用品を中心に展開しましたが、広大な中国市場に独自の流通網を築くことには長年苦心していました。
花王 中国事業の重要タイムライン
1993年
上海に合弁会社を設立。シャンプー「アジエンス」や洗剤などの販売を開始。
2011年
中国最大のEC企業アリババ集団と提携し、天猫(Tmall)に旗艦店をオープン。BtoCチャネルのデジタル化を加速。
2010年代半ば
ベビー用紙おむつ「メリーズ」が訪日観光客の「爆買い」や越境ECを通じて中国の富裕層・中間層に大ヒット。中国事業の売上と利益を爆発的に牽引する。
2023年〜2026年
中国の少子化とローカルブランドの台頭、さらにALPS処理水問題による逆風を受け、化粧品・日用品ともに苦戦。事業ポートフォリオの大幅な構造改革(不採算ブランドの整理)に着手。
花王の中国事業が一気に「黄金期」を迎えたのは、2010年代のベビー用紙おむつ「メリーズ」の爆発的ヒットです。当時の中国では、国産の紙おむつによる肌荒れや偽物問題が深刻化しており、一人っ子政策下で「我が子には絶対的に安全で高品質なものを」と願う中国の親たちにとって、花王のメリーズはまさに救世主でした。
「通気性が良く、蒸れない」「絶対に日本製(Made in Japan)のものが欲しい」という熱狂的な需要は、日本のドラッグストアからメリーズを消し去るほどの「爆買い」と「転売(ソーシャルバイヤー)」を生み出しました。花王はアリババ等との直接取引を強化し、越境EC市場における絶対的なトップブランドとして莫大な利益を享受したのです。
2. データ分析①:神話の崩壊。オムツ市場を席巻する中国ローカル
しかし、その「メリーズの神話」は、2020年代に入ると音を立てて崩れ去ります。その背景には、抗うことのできない「2つの巨大な波」がありました。
図1:中国ベビー用紙おむつ市場における「日本ブランド」と「中国ローカルブランド」のシェア推移(推計)
出所:サードパーティ市場調査データを基に作成
メリーズを追い詰めた「2つの波」
- 「Babycare」など中国ローカルブランドの圧倒的進化:
かつての「安かろう悪かろう」は完全に過去のものです。中国のローカルメーカーは、世界中から最高の素材(日本の高分子吸収体や欧米の不織布)を調達し、花王を凌駕する吸収力やデザイン性を持つオムツを開発しました。特に「Babycare(白貝殻)」は、Z世代の親に刺さる高いデザイン性と、SNS・ライブコマースを駆使したマーケティングで、瞬く間に外資系からシェアを奪い取りました。 - 中国の深刻な少子化(市場の縮小):
中国の年間出生数は、2016年の1883万人をピークに急減し、2023年には902万人と半分以下にまで落ち込みました。パイ自体が急速に縮小する中で、高価格帯の日本製品は真っ先に淘汰の波に晒されたのです。
図1が示す通り、「安心・安全の日本製」というだけで売れる時代は終わり、機能性、デザイン、そして現地のトレンドを瞬時に反映させるマーケティング力において、日本ブランドは中国ブランドの後塵を拝する結果となりました。
3. データ分析②:化粧品事業における「中価格帯(マステージ)の罠」
紙おむつが失速する中、花王の中国事業を支えるもう一つの柱が化粧品事業(カネボウ化粧品含む)でした。乾燥性敏感肌向けの「キュレル(Curél)」や、和漢植物エキスを配合した「フリープラス(freeplus)」、そしてメイクアップの「KATE(ケイト)」などは、中国の若者の間で絶大な支持を集めていました。
しかし、ここにも花王特有の「構造的な弱点」が隠されていました。
図2:中国化粧品市場の価格帯別プレイヤー配置と、花王(キュレル等)が直面する「マステージの罠」(推計)
※超高級帯へのシフトが遅れた結果、最も熾烈なローカルとの血みどろの戦場に巻き込まれている
図2の通り、中国の化粧品市場は大きく3つの価格帯に分かれています。
- プレステージ(高価格帯): 資生堂(クレ・ド・ポー ボーテ)、ロレアル(ランコム)、エスティローダー等の牙城。C-Beautyがまだ容易に侵入できない聖域。
- マステージ(中価格帯): まさに花王(キュレル、フリープラス等)の主戦場。しかし現在、珀莱雅(Proya)や薇諾娜(Winona)といった中国トップのC-Beautyが最もリソースを投下し、苛烈なシェア争いを行っている「レッドオーシャン」。
- マス(低価格帯): 中国の新興プチプラブランドの主戦場。
資生堂が早々にマス(日用品)を切り離し、高利益率な「プレステージ」へと中国事業の舵を切ったのに対し、花王は「SENSAI」などの最高級ブランドの中国投入が遅れました。その結果、花王の主力ブランドは、技術力と資金力を身につけた中国のトップブランド(C-Beauty)と「同じ価格帯・同じ効能(敏感肌ケア等)」で真っ向から殴り合わなければならない「中価格帯の罠」に完全に陥ってしまったのです。
中国の消費者が「同じような敏感肌向けなら、国産の薇諾娜(Winona)の方が安くて効果も高い(平替:安価な代替品)」と気付いた時、花王の強みは急速に失われていきました。
4. 処理水ショックと「スピードの敗北」
この「中価格帯での苦戦」に決定的なトドメを刺したのが、2023年夏のALPS処理水海洋放出に伴うチャイナ・ショックです。
中国のSNS(抖音や小紅書)において、「日本製の化粧品は安全なのか?」という不買運動(買い控え)が拡散しました。プレステージ(超高級)ブランドを買う富裕層は比較的冷静でしたが、花王が主戦場とするマステージ(若年層・中間層)のターゲットは、こうしたSNSのナショナリズムの波に最も敏感に反応し、一気に中国ローカルブランドへの乗り換え(国産シフト)を加速させました。
図3:花王のアジア(主に中国)におけるコンシューマープロダクツ事業の売上高推移(推計・指数)
出所:決算資料等を基に作成(※2026年は予測)
図3が示す通り、オムツの低迷と化粧品の苦戦が重なり、花王の中国を含むアジア事業の売上は、2021年頃をピークに明らかな調整局面(縮小)に入っています。
さらに根本的な課題は「開発と意思決定のスピード」です。現在の中国市場は、抖音(Douyin)のライブコマースで消費者の生の声を拾い、わずか数ヶ月で新商品を開発して市場に投入する「C2M(Consumer to Manufacturer)」の時代です。しかし、日本の巨大な組織と厳格な品質基準を持つ花王は、「日本で企画・開発したものを、1年後に中国へ輸出する」というプロダクトアウト型のスタイルから抜け出しきれず、秒進分歩で変化する中国の若者のトレンドに完全に置き去りにされてしまいました。
5. 2026年の大転換:構造改革と「尖った機能(エビデンス)」への回帰
「このままでは中国市場でジリ貧になる」。強烈な危機感の中、花王の経営陣は現在、血を流すような事業ポートフォリオの抜本的な構造改革に着手しています。採算の合わない、あるいは中国ローカルとの差別化が困難になったブランドを容赦なく整理・統廃合し、リソースを「勝てる領域」に全集中させる戦略です。
「セラミド」など、真似できない皮膚科学への一点突破
花王が中国で再び輝きを取り戻すための最大の武器は、マーケティングの派手さではなく、やはり「圧倒的な基礎研究力(サイエンス)」です。
例えば主力ブランド「キュレル」において、花王は世界に先駆けて開発した「セラミド機能成分」という極めて強力な武器を持っています。単なる「肌に優しい」という曖昧な訴求を捨て、「なぜセラミドが肌のバリア機能を修復するのか」という科学的エビデンスを、専門医や成分党のKOLを通じて論理的に発信していくアプローチです。
「In China for China」への本格移行
また、中国におけるR&D拠点を強化し、「日本の研究所でできたものを持ち込む」のではなく、「中国の消費者の肌悩み(大気汚染やストレスによる肌荒れなど)を解決するための商品を、中国で直接開発する」という徹底した「In China for China」への移行を急いでいます。
6. 結論:日用品の巨人が試される「付加価値」の創出力
「日本製だから売れる」「安全だから売れる」。花王を中国市場のトップへと押し上げた魔法の言葉は、中国企業自身の製造技術の向上によって完全に無効化されました。
メリーズの挫折と化粧品事業の苦戦は、花王一社だけの問題ではありません。それは、中国市場に進出しているすべての日本の消費財メーカーが直面している「品質だけでは中国のスピードと価格に勝てない」という残酷な現実の象徴です。
しかし、花王には130年以上にわたり培ってきた界面科学と皮膚科学の「本物の技術の蓄積」があります。2026年、花王の中国事業は単なる「ボリューム(量)の追求」から、「中国の消費者が、高くてもどうしても欲しいと思える『尖った付加価値(機能と体験)』を創出できるか」という質的転換のフェーズに入りました。レッドオーシャンと化したマステージ市場を抜け出し、技術力という「最強の盾と矛」で再び中国消費者の心を掴むことができるか。日用品の巨人の真の底力が、今まさに試されています。