中国のコンビニエンスストアやスーパーマーケットの飲料コーナーで、ひときわ目を引く鮮やかなブルーのパッケージ。「宝矿力水特(バオクァンリーシュイター)」と名付けられたポカリスエットは、現在、中国の若者たちの間で「電解質水(スポーツドリンク)」の代名詞として爆発的な売上を記録しています。
しかし、この爽やかな飲料の背後にある大塚製薬という日本企業が、実は中国の改革開放初期において「中国政府が初めて認可した日中合弁企業」であり、中国の近代的な医療インフラ(点滴・輸液)の構築に計り知れない貢献をしてきた歴史を知る人は、日中のビジネスパーソンでも多くはありません。
本稿では、大塚製薬の中国事業を「医療用医薬品(ファーマ)」と「ニュートラシューティカルズ(日用品・飲料)」という二つの車輪から紐解き、中国特有の「電解質水ブーム」のデータ分析や、新興ローカル巨大ブランドとの熾烈なシェア争いまで、詳細な図解とともに徹底的に解剖します。
1. 歴史的基盤:1981年、中国「初」の合弁企業と輸液革命
大塚製薬の中国進出は、他の日系消費財メーカーとは一線を画す、極めて重厚かつ歴史的な文脈を持っています。
大塚製薬 中国事業の歴史的タイムライン
中国医薬工業公司との折半出資により、天津市に「中国大塚製薬有限公司」を設立。医薬品分野のみならず、中国政府が認可した全ての日中合弁企業の中で最初期の一つという歴史的快挙。
中国初となる「近代的なプラスチックボトル入り輸液(点滴)」の生産を開始。中国の医療現場の安全性を劇的に向上させる。
広東省等で「ポカリスエット(宝矿力水特)」の現地生産・本格販売を開始。
中国のゼロコロナ政策解除と健康意識の高まりにより、ポカリスエットの需要が爆発。電解質水市場のトップブランドとして君臨。
1980年代初頭の中国の医療現場では、点滴(輸液)はガラス瓶に入れられ、ゴム栓を使い回すのが当たり前であり、異物混入や感染症のリスクが極めて高い状態でした。大塚製薬はここに最新鋭のプラスチック製ボトル(ポリプロピレン容器)の製造ラインを持ち込みました。
利益が出るかどうかも分からない改革開放の夜明け前に、莫大な投資を行い、中国の患者の命を救うための安全な「水(輸液)」を提供し続けた大塚製薬。この「井戸を掘った恩人」としての歴史的実績は、中国政府との間に、現在に至るまで他社には絶対に真似できない強固な信頼関係(グアンシ)を築き上げています。
2. ポカリスエットの苦闘と「電解質水ブーム」の到来
医療用医薬品で確固たる地位を築いた大塚製薬は、2000年代に入ると、もう一つの柱である「ニュートラシューティカルズ(Nutraceuticals)」事業、すなわちポカリスエットの中国展開を本格化させました。
しかし、発売当初の中国市場の反応はやや冷ややかなものでした。当時の中国人にとって飲料とは「甘いジュース」か「お茶」であり、「しょっぱくて甘い不思議な水」は全く理解されなかったのです。大塚製薬は焦ることなく、学校やスポーツイベントでの地道なサンプリング、医師や専門家を通じた「水分と電解質補給の重要性」の啓蒙活動を何十年にもわたって続けました。
そして、その地道な努力が「二つの巨大な波」によって一気に花開きます。
ポカリスエットを爆発させた「二つの波」
① Z世代のスポーツ・アウトドアブーム:経済成長に伴い、中国の若者の間でジム通い、マラソン、さらにはフリスビーやキャンプといったアウトドアが爆発的に流行。「スポーツ時には単なる水ではなく、電解質を補給しなければならない」という科学的リテラシーが定着しました。
② 2022年末の「ゼロコロナ解除ショック」:これが決定打となりました。中国全土で感染が爆発した際、SNS(小紅書/REDやWeibo)で「発熱して汗をかいた時は、宝矿力水特(ポカリスエット)を飲んで脱水を防げ」という医療従事者やインフルエンサーの投稿が瞬く間に拡散。全国のスーパーやECサイトからポカリスエットが完全に姿を消す「パニック買い」現象が発生し、ブランドの認知度と信頼性が極限まで高まりました。
3. データ分析①:急成長する中国「電解質飲料」市場
これらの要因により、中国の飲料市場において「電解質水(スポーツ飲料)」というカテゴリー自体が異常なスピードで急拡大しています。
図1:中国における「電解質飲料(スポーツ飲料含む)」市場規模の推移(推計)
出所:サードパーティ市場調査データを基に作成
図1が示すように、かつてはニッチな市場であった電解質飲料市場は、2022年を境に垂直立ち上がりを見せ、2026年には約400億元(約8,000億円)規模に達すると推計されています。
大塚製薬(ポカリスエット)は、この巨大な市場成長の波を最も良いポジションで捉え、中国での売上を劇的に押し上げているのです。
4. データ分析②:巨大ローカル「外星人」との熾烈なシェア争い
しかし、中国市場において「儲かる」と分かった領域には、瞬く間に資本力を持ったローカルの巨大企業が殺到します。ポカリスエットにとって現在最大の脅威となっているのが、中国飲料界のユニコーン企業「元気森林(Genki Forest)」が展開する「外星人(Alienergy)」という電解質水ブランドです。
図2:中国の電解質飲料市場におけるブランド別金額シェア(2025年推計)
※ポカリスエットと外星人の「2強」による熾烈な覇権争い
図2の通り、中国の電解質飲料市場は現在、大塚製薬の「ポカリスエット」と元気森林の「外星人」による事実上の2強状態(プラス、ペプシコのゲータレード等)となっています。
ローカル新興ブランドである「外星人」の武器は、中国の若者の「糖質制限ブーム」を突いた「無糖(ゼロカロリー)」の訴求と、ライチ味や白桃味といった多彩なフレーバー展開、そして莫大な資金力にモノを言わせたインフルエンサーマーケティングです。
大塚製薬の対抗策:「医療ルーツ」の圧倒的な科学的根拠
この猛烈なローカル企業の攻勢に対し、大塚製薬は安易に「無糖」や「奇抜なフレーバー」の価格競争には追従していません。彼らの戦略は明確です。それは「医療用輸液(点滴)のリーディングカンパニーが開発した、人体に最も近い『本物』の水である」という、圧倒的な科学的エビデンスの強調です。
「なぜポカリスエットには適度な糖分が含まれているのか? それは、腸管からの水と電解質の吸収スピードを最速にするために、科学的に計算された必須の比率だからだ」。この「製薬会社が作った本物の機能性」というストーリーは、健康に対して極めて理性的になった中国のZ世代(成分党)から絶大な信頼を勝ち得ており、結果として高いブランドロイヤルティ(指名買い)を維持しています。
5. データ分析③:ファーマとNC、強靭な「両輪」のポートフォリオ
大塚製薬の中国事業の真の強さは、ポカリスエット(NC事業)だけではありません。祖業である「医療用医薬品(ファーマ事業)」が、現在も強固な収益基盤として機能している点です。
図3:大塚製薬 中国事業におけるセグメント別売上高の成長イメージ(指数化)
※安定成長のファーマ(医療)と、爆発的に伸びるNC(飲料等)の強靭なポートフォリオ
輸液だけでなく、グローバルな主力製品である抗精神病薬「エビリファイ」や「レキサルティ」、さらには中国で依然として深刻な問題である抗結核薬の分野において、大塚製薬は中国の医療現場に深く入り込んでいます。
中国では近年、医療費抑制のための「VBP(集中購買制度:国による医薬品の大量一括買い上げと大幅な薬価引き下げ)」が導入され、多くの外資系製薬企業が利益を削られ苦戦しています。しかし図3が示す通り、大塚製薬は新薬の投入によるファーマ事業の「手堅い安定成長」と、ポカリスエットを筆頭とするNC事業の「爆発的な急成長」という、完璧にリスクヘッジされた「強靭な両輪(ポートフォリオ)」によって、中国市場全体で過去最高益レベルの躍進を続けています。
6. 結論:イデオロギーを超える「健康」という普遍的価値
2026年現在、日中関係は政治的な摩擦や経済安全保障(デカップリング)の壁に直面しており、多くの日系企業が中国事業の縮小や撤退(デリスキング)を検討しています。
しかし、大塚製薬の歩みは、そうした地政学の荒波とは全く異なる次元にあります。1981年、まだ貧しかった中国の患者のために「安全な点滴」を作る工場を建てた日から、大塚製薬の哲学は一貫しています。それは「世界の人々の健康に貢献する革新的な製品を創造する」という企業理念です。
政治体制がどう変わろうと、米中がどう対立しようと、中国の14億人の人々が「健康でありたい」「病気を治したい」「安全で美味しい水で渇きを潤したい」と願う本質的な欲求が変わることはありません。
医療(輸液・新薬)というインフラで命を守り、消費財(ポカリスエット)で日々の健康を支える。この「人の生命に直結する普遍的な価値」を提供し続ける限り、大塚ブルーの看板は、今後も中国の大地で色褪せることなく輝き続けるでしょう。